Debussy, Claude Achille (1862 - 1918)
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■1862年フランスの サン=ジェルマン=アン=レにて商家の長男として生まれた。
 家系に音楽家はなく、音楽教育は9歳の時(1871年)にポール・ヴェルレーヌの義母 モテ・ド・フルールヴィル夫人から本格的に始まった。 翌1972年、彼が10歳の時にパリ音楽院への入学が許され、13歳のころにはピアノコンクールで一等賞を獲るなど頭角を現す。 1880年(18歳時)、パリ音楽院のピアノ伴奏クラスで一等賞を獲得し、チャイコフスキーのパトロンでもあったメック夫人のピアノ伴奏者となる。 さらに声楽家モロー=サンティ夫人の伴奏者となり、さらにヴァニエ夫人と知り合って、一般教養や文学、歌曲に対し多大な影響を受ける。 1884年 22歳の時にカンタータ「放蕩息子」がローマ大賞を獲得し、翌1885年(23歳時)にイタリアへ留学。 しかし、そこでの生活に飽きたために2年で帰国。 その後次第に象徴派の詩人たちとの交流が深まる。 1889年(27歳)、パリ万国博覧会で東洋の音楽に接し、衝撃を受ける。 1894年「牧神の午後への前奏曲」を完成させ、印象派の扉を開く。 1905年(43歳)、リリー・ドビュッシーと離婚し銀行家夫人エマ・バルダックと同棲、愛娘クロード=エマ(シューシュー)誕生。 1914年7月、第一次世界大戦勃発。 1915年(53歳)、癌の手術を受ける。 1918年3月25日(55歳)、直腸癌のため死去。 11月に第一次世界大戦終結。

ドビュッシーの音楽は、古い伝統的なスタイルの殻を破り、自由に光と影が綾なす色彩に音楽を開放した。
このことは伝統的な、すなわちドイツからの影響を受けたものとは相反することとなった。
次第にワーグナーに敵対心を持つようになり、後年勃発した第一次世界大戦により、彼のドイツ嫌いは決定的となった。
1911年(49歳)にストラヴィンスキーに出会い、彼を含め後世に多大な影響を与え、今では現代音楽の始祖と呼ばれることを不動のものにしている。
曲の紹介
■最初の作曲作品。 歌曲「星の夜」

おそらくは16歳ころまでに作曲されたとされている、最初に出版され世に出た作品。
最初期のドビュッシーはほとんどすべてが歌曲と言って良いほどで、実際彼の音楽家としての生活の始まりは歌手のピアノ伴奏者であったこともあげられる。 また、当時のフランスでは歌曲が隆盛のピークにあった・・・
幼いころにちゃんとした言語教育を受けられなかったことがコンプレックスとなり、逆にそれをバネに、言葉に対する感性を磨いて行ったとも考えられている。
ドビュッシーは「言葉」と「音楽」の完全な一体化を目指していて、それはオペラ「ペレアスとメリザンド」によって完成を極めることになる。
星の夜


ドビュッシー・フォーレ
歌曲のページ
■初期のころは歌曲ばかり・・・

ドビュッシーの作曲初期のころはほぼ歌曲ばかりである。 これは歌手のピアノ伴奏者としての地位を得ていたこともひとつの原因で、また取り上げた歌詞も甘く、誘惑に満ちたものが多かった。
麦の花

美しき夕べ

春が来た

そよ風
■ポール・ヴェルレーヌの詩との出会い・・・

ドビュッシーの形成を決定付けたもののひとつにヴェルレーヌの詩との出会いが上げられる。 ドビュッシーが本格的に音楽を学び始めたのは実はこのヴェルレーヌの義母であるモテ・ド・フルールヴィル夫人からであり、ドビュッシーは若き時からすでにその波動を受けていたに違いない。 ドビュッシーはヴェルレーヌの詩に作曲し続けた。 また多くの象徴派の詩人たちとの交流をもち、たくさん影響を受けながら成長していくことになる。
バイロイトへ旅行と前後しながら完成させた歌曲集「ボードレールの五つの歌」の後、しばらく歌曲から遠ざかり、その間に有名となったピアノ作品を発表。 歌曲を再開して少しの間おとなしめの曲が続くが、再びヴェルレーヌに戻る。
月あかり I

都に雨の降る如く

緑(水彩画)

海は伽藍よりも

月あかり II
■初期のころのピアノ作品

まだサロン風の雰囲気の影響を受け、またイタリア留学の経験から持ち帰った異国情緒が垣間見える作品が多い。
小組曲より「小舟で」
ベルガマスク組曲より「月の光」
ベルガマスク組曲より「パスピエ」
MP3 月の光 ジャーマン・スタインウェイ D9
■ドビュッシー自身による詩の歌曲集「抒情的散文」を完成させて再び歌曲を中断。 新たな構想に着手。
■牧神の午後への前奏曲

1892年(30歳)に作曲に着手。 1894年の完成。 演奏会は大成功に終わり、原詩の作者 ステファーヌ・マラルメからも絶賛される。 印象主義による最初の作品。
「夏の昼下がりにまどろむ牧神が見る、現実とも幻ともつかない淡い光景」
牧神の午後への前奏曲
■ビリティスの歌

上記「牧神の午後・・・」の作曲を始めたすぐ後に作曲し始めたオペラ「ペレアスとメリザンド」。 ドビュッシーはここに言葉と音楽の完全な一体化を目指す。 その間にこの「ビリティス」で歌曲としての完成を見ることになる。 ドビュッシーは音楽が言葉の背景を作り出し、言葉の限界の先に果たす役割を十分に理解していた。
 この歌曲集は大親友であったピエール・ルイスの散文詩が元になっている。 この後歌曲の作曲はいったん終了し、オペラ「ペレアスとメリザンド」、交響的三部作「夜想曲」、ピアノ曲集「ピアノのために」などに精力を傾ける。
パンの笛



ナイアードの墓
■オペラ「ペレアスとメリザンド」

メーテルランク作の戯曲をオペラ化したもので、ここで言葉と音楽の一体化を目指す。
音楽は言葉の背景を作り出す役割を担うもので、それまでの概念を覆すものとなる。
導入部分「とある森で」
(ゴロー登場まで)
■「夜想曲 <Nocturnes>」 (管弦楽と合唱のための交響詩三部作)

1897年12月から1899年12月にかけて作曲。
「牧神の午後への前奏曲」で印象派の扉を開いた後、この曲でそれを完全な形に完成させた作品。 初演は1900年12月9日に「シレーヌ」を除いた2曲がラムルー管弦楽団演奏会で行われ、翌1901年10月27日に全三部作の完全な形で演奏が行われた。 ドビュッシーはこれをひとつの実験として捕らえていたようで、画家がパレットに色を置く様に、ひとつの線に対してさまざまな音色が塗り重ねられていく。 もはやここには伝統的なものはなく、音色が持っている、本来ある色彩に開放されていく。 ドビュッシーの言葉では・・・「夜想曲という題は、ここではより一般的な、とりわけ装飾的な意味に理解していただきたい。 すなわち伝統的なノクターンの形式を言うのではなく、印象と特別な光とをめぐって言葉が呼び起こすすべてが含まれているのである。」

 「」・・・これは動くことのない空の姿であり、そこでは雲がゆっくりとわびしげに移ろい、やわらかに白みを帯びた灰色の色調の中に消えてゆく。
 「祭り」・・・突然まばゆい光が差し込み、晴れやかな気分の踊るようなものである。そして空想的な幻影の行列が祭りに近づき、その中に溶け合ってゆく。
 「シレーヌ」・・・これは、海とその数え切れないリズムである。 月の光を映してきらきら輝く波の間に、海の精たちの神秘的な歌声が、笑いながら、永遠の彼方に消えていくのが聞こえる。
シレーヌ
■神聖な舞曲と世俗的な舞曲 1904年作曲。

ハープと弦楽合奏による協奏曲。
古めかしい旋律を感じさせながらも独特の和声で包まれる。
Danses
■海 -3つの交響的スケッチ 1903〜1905年作曲
オペラ「ペレアス・・・」の完成の後、ピアノ曲「版画」「喜びの島」を作るが、家庭生活が破綻し妻リリーが自ら命を絶とうとする。 その後離婚し銀行家の夫人エンマ・バルダックと同棲。 世間の目は厳しくなり、親友とも離別する。 作品の発表も減り、世間の攻撃は激しくなる。 そうした中ひたすら作り続けたものがあった。 それが交響詩「海」である。
作曲が開始されたのは1903年の夏からで、ドビュッシーはそのころ妻リリーの実家であるブルゴーニュ地方に居たので、実際に海を見ながら作曲されたわけではなく、ドビュッシーのイメージの中の光とリズムに素直に従ったものと思われる。 そして、やがて妻リリーを捨ててエンマ・バルダックと駆け落ちしてしまったので、完成は1905年3月5日までかかってしまうことになった。 初演は1905年10月15日。初演時にはこの曲の新しさがあまり理解されずに、一部の楽団員からも拒絶されるなど評判が良くなかったようで、後にドビュッシー自らの指揮による(ドビュッシー自身の初指揮)演奏会で、やっと評判を得るようになったという経緯がある。
I 海の夜明けから真昼まで
■ピアノ曲集「子供の領分」

愛娘”シューシュー”(クロード=エンマ)のために作られた素敵な小品集。
妻のエンマはイギリス趣味であったらしく、庭も家具などの調度品にもそれらが取り入れられていたようだ。 そうしたことからか、この曲集はすべて英語の表題が付けられている。 音楽自体もそうだが、ピアノを弾く手の形がまるで表題のようで、さながらドビュッシーは、ここで音楽と手の動きの一体化を目指した実験をしているようだ。 全6曲
グラドゥス・アド・パルナッスム博士
象のこもり歌」
人形のセレナード
雪が踊っている
小さな羊飼い
ゴリウォーグのケークウォーク
MP3 グラドゥス・アド・パルナッスム博士 スタインウェイ D9
MP3 雪が踊っている ジャーマン・スタインウェイ D9
MP3 ゴリウォーグのケークウォーク ジャーマン・スタインウェイ D9
■ピアノ曲集「前奏曲第1集」

ピアノの分野でも印象主義を確立したドビュッシーの意欲作。
これはバッハやショパンの同じ曲集をにらんでいると言われている。 ここでもドイツ的な、配列的な要素を否定するかのように曲が並ぶ。 全12曲
デルフの舞姫たち
音とかほりは夕暮れの大気に漂う
雪の上の足跡
亜麻色の髪の乙女
沈める寺院
MP3 雪の上の足跡 ジャーマン・スタインウェイ D9
MP3 沈める寺院 べーゼンドルファー 290 インペリアル
■ステファーヌ・マラルメの三つの歌

歌曲についてひとつの頂上を越えてしまったドビュッシーは、ここで精神的な師父であるマラルメに立ち返って、新たな試みを得ようとし始める。 ドビュッシーの言葉から・・・「感動の裸身に身をゆだねるために装飾を削れるだけ削った。」
ため息
■六つの古代エピグラフ(碑銘)

1900年にPierre Luoÿsの「ビリティスの歌」への付随音楽として書かれたものを元に、1915年ピアノデュエット版として出された。 古代文明への瞑想とともに、空間的な音楽で、無調性なスタイルは現代音楽の領域をも開く曲集。
夏の風の神、
パンに祈るための
無名の墓のための
しあわせな夜のための
クロタルにあわせて踊る
舞姫のための
エジプトの女のための
朝の雨に感謝するための
連続再生
■ドビュッシー最後の歌 「家なき子等のクリスマス」

第一次世界大戦が激しさを増す中、ドビュッシーは癌の手術のために入院する。 その直前にこの曲が作られた。 歌詞もドビュッシー自身によるもの。
家なき子等のクリスマス
■フルート・ヴィオラとハープのためのソナタ

1915年作曲。 様々な楽器編成のための『6つのソナタ』を構想し作曲を開始。 ソナタと言う名前も伝統的な形式ではなく、自由な発想が盛り込まれている。
前年の1914年には最後の国外旅行をしており、この曲にもそうした楽しさと、戦争に対する後ろ暗い感触が行き来している。
1917年、3つ目のソナタである「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」が完成するが病状が悪化。 翌1918年3月に他界。 ついに構想されたソナタのすべてを完成することはなかった。
Pastorale
Interlude
Final
3曲の連続再生
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